昭和40年11月28日 夜の御理解



 こうして日々おかげを受けて行く。本当に日々神恩の広大無辺な事が解って来る。本当にお生かしを頂ておると云う事だけでも有難い。細々乍ら家族打ち揃うて円満にその日暮しでも出来ると云う事は有難い。けれどもそういう言うておる事が、何時迄も続たのでは私本当の事ではない。日勝り月勝り年勝り代勝り、はぁこの調子で行けば、この信心で行けばこの調子で行けば、来年はこうなるぞ、再来年はこうなるぞと。
 将来はこういうおかげにも成って行くだろうと、いう見通しが付かなかったら、信心に楽しみがない。私今ここに座らして頂いて、今頂いた途端に頂くのが、秋永明光と頂いた。秋というのはまあ寂しいもの、木の葉でも落ちて仕舞って、そして冬に入って行こうと、冷たい寒い冬に入って行こうという時なんです。その秋が長いだけではいかん、是もおかげと、木の葉の散るのも又おかげだと言う、こういうだけではいかん。
 例えば辛い冬を辛抱させて頂いたならば、花咲く春と云うものがある。と言う事が確信出来れる信心を頂かにゃ駄目。明光とは明かな光と書いてある。明と言う字を崩しますと、日に月にと書いてある。日に月に光と云うものがです、心の中に大きゅうなって行く。希望がいよいよ湧いて来る。先き先き、この信心さえ家族の者が頂いて行けば、おかげが受けられるぞという風にです。
 私おかげを頂けて行かなければいけないと思うのですたいね。成程成程お生かしのおかげを頂いておるという事だけでも有難い。ただいま御祈念かかる前に、久富さんがお届けされております、今朝のお夢に、お庭いっぱいとも思われる様な大きな石がある、それで繁雄さんが思われていくのに、これが合楽の石庭に座るのだろうと思ったら、それが亀になって動きだした。そういうお知らせであった。
 聞いただけでも有難いお知らせだと思うですね。私ここ二、三日、三日あまり、椛目御造営の事が軌道に乗るなあ、という気がしきりにしてなりません。今迄は何か知らんけれども、ちぐはぐな感じがずっとして軌道に乗っておると感じられなかった。皆さんが一生懸命であるけれども、軌道に乗せる為に一生懸命であったという感じがする。ところがこの二、三日私が感じるのは。
 いよいよ軌道が付くなと、軌道に乗ったからというて脱線と云う事がありますから、油断も隙も出来る事じゃないですけれども、何とはなしに軌道に乗るなという気がするんです。繁雄さん、昨日正義さんが来てからね、あちらにそれこそ庭いっぱいと云う様な1トンら2トンもある様な、おおきな石が三個、正義さんが相談してくれとります。それを繁雄さんの久富正義さんの家内の弟になる人が。
 この人は石庭を造るのが趣味の様にして、もう沢山石を寄せておられます。だからあすこがでける時には、自分とこの石を持って来てでも、自分が御用さして貰おうと言っておられるのですから、その方がして下さるらしいんです。それがあの今度あちらの現場の方から帰って参りましてから、今度帰って来とるまあ、今日行っとらんなら明日にでも自分所の機械力を全部動員してから。
 椛目の青年会の方達に五、六人手伝うて頂いてからこの石をあすこへ運ぶと言うておられる。いわゆる成程石が動き出すなという感じが致しますでしょうが。けれどもそれだけじゃないですね。その大きな石と云う事は、私はこれはそのまま天地金乃神様の石だと思うです。天地金乃神様のお心だと、天地が動き出しなさると云う感じでしょうが。又それを金光大神の石、金光大神の心という事にもなるでしょうが。
 一番身近に感じる事は亀になって動きだしたという事は、私の心が信心がここに動き出す事になるでしょうが。亀が動く大きな亀が動きだした。とに角私共がおかげを受けると云う事は、私共がそれはどんなにどんなに稼いでも、稼いでもやっぱり人間の力しかでけんのですから。ここに無限神力無限、いわゆる無限の働きというものがです、その事に一緒になり私共の一生懸命の働きが一緒になって生まれて初めて。
 本当の事が為されて行くのであり、これは家なら家の繁盛に上に於いてもそうなんです。お広前の上に於いてもそうなんです。天地が動いて下さらない事には本当のおかげになりません。そういう気がするでしょうが。例えば椛目で御理解を頂きつけておられる方が今日今私のお話を今繁雄さんからお取次させて頂いて思うのです。先程も丁度夕方お参りが混雑しとりまして。
 あちらから現場から、帰って来る人もあり親戚の方を、伴うてお参りして来取る人もあるという風に。ですから普通の御信者さんなら、おかげ頂いたねだけでいいけれども、そんな訳にはいかんのです。親戚の方連れて来とりますもんですから、さぁお茶のひとつもあげんならん、もう私はあっちにもの言い、こっちにこう、夕方するとにとに角水飲むひまが、のどがです。
 私最近は体の具合いでしょうと思うです。けれども一滴でも水を飲まなかったら口がひっついてお話がでけなくなる。今もお水を頂かなければ、お話がでけなくなってるんですけれども、ちゃんと水用意させとる。ですからそしたら豊美が言うこつですもん。お父さんは愈々カッパんごつなってしもうたね、ち言いますもん。なしやち言うたら、もうカッパち云う奴は水から離れたら力が無いもんだと云う訳なんですね。
 ですから、私も水が無かったらお話がでけんと云うもんですから、お父さんもいよいよ、カッパんごとなってしもた(笑)ほんなこてカッパごとなってしもうたねと、言い乍ら思うとですたい。水の事何時もお恵と仰る。人間はお恵を離れたらどうする事も出来んと、いう事をひとつ思い込ませて頂く事。お恵を離れたらもうそれこそ、一分間だって生きることが出来ないという事。
 お互いだから許されて生きて居るのです。それが信心が、段々高度な風になって行けば行く程に、神の恵と云うのが希薄になっただけでも、もうお話がでけんと云うごとなるのじゃないだろうか。私知らんでそう思うんです。確かに、ですから信心がでけた、来る人はお気付が激しいでしょうが。もうちょっとお恵、希薄になったらもうそこに、お気付になって現れとるです。
 だからお気付だけでも頂けんごとなったら、信心もおしまいだと言われるのもそこなんです。いくら言うて聞かせてもいくら拝んでも参っても、神様を遠いものになって、お気付けをお気付と気付かんごとなったら、お気付すらなくなって来る。その中で許されて生きて居ると云うのでは、神恩報謝の生活なんて云う事はおぼつかないです。出来ない、成程神様のおかげを頂いとる印だと。
 神様のおかげを頂いとる印だと。云う様な実感の中に生きる事が、言わば生かされて生きて居る喜びというものを、実感する事が出来る有難いのである。ですから私共本当にそれを私も実感するです神様がですね、私共何時もそれを思うのですけれども、ここへ座らせて頂いておってから、次々御理解を頂く時に思うのです。本当に自分の知恵やら力やら話術ぐらいで、こげなお話出来るとは思われんです朝御理解を説くでしょう。
 今日なんかは信心奉修員の方達の信心のもうそれにですね、もう本当にもうそれこそ私の頭の中にあげん入ってる筈はないです。朝の御理解は御理解に又はその方達には、その方達に対してです、又次々に参って来る方達には、次に参って来る方達に対してです、もう本当に御理解を頂けれるという事でも、私がお恵を離れたら出来ることじゃないという事を感じますです。
 そこにまあ言うなら、椛目の御理解の魅力もある訳で御座いましょうけれどもです、それを私共が本当に自分の血に肉にして行かなかったら、又値打はないので御座いますから一つ本気でです、恵を離れたらもう動きが取れない位に、ひとつ信心が高度な所になって行くと有難いですね。ですからお水さえ頂いとれば、なんぼでもお話が出来るというごたる風にですね、これはお話だけじゃありません。
 お恵から頂いてさえおきゃです、もう無尽蔵に限りが無い。この調子で頂いていきゃ、先々どういうおかげになるだろうかと、いったような希望が持てれる訳でしょうが。総代さん方の緊急重大会議と銘うっての、委員長が招集する事になっとる総代さん方を、こういう事なんかでも、いよいよ何か軌道に乗る為に動きだした、言わば大きな亀が動き出したという感じが致しますですね。そういう一つの動きにですね。
 動き出した電車に乗り遅れないように、お互いの信心もです、歩調が合って行かなければならないと、軌道に乗ってない間はしだこだでもです、やっぱり付いていけたけれども軌道が出けりゃとに角、言わば軌道を真一文字に進んで行く事でしょう。いわゆる振り落とされる者は振り落とされるでしょう。積み残される人は積み残されるでしょう。乗って行ける人は乗って行けれるおかげが受けられるでしょう。
 どうでもひとつおかげを頂いてから、そういう大きな一つの動きの中で、そういう大きな神様の石というものが動き出して来る。その中で私共も便乗さして頂いて、生き生きとした信心修行と云うものを続けなければいけんと、先程久富先生と話した事でした。昨日あちらの次義さんの五年祭がここで御座いました。それで息子達がみんな三、四人おります。一人は都合で出来ませんでしたけれども。
 四人全部遠方に行っとるとは帰って参りましてから、内々だけでしたけれども、本当に有難い霊様のお祭りを奉仕さして貰いました。それで後から御直会の時に言う訳です。本当にあんたんごと打ち揃うてからね、これだけ立派な息子が打ち揃うて四人もおるのだから、ま、あんたげんお父さんな、今本当に結構けだらけち言うごたる久富先生極楽、も本当椛目参りが仕事。
 もそれだけであげなおかげ頂かっしゃってち、いうごたるおかげにもう大体ならにゃいかん。ぼちぼちというて一人一人がです、親不孝してやりまっしょち、いうごたるとはいっちょん居らんという事。そうどこじゃ御座いませんち、分かる子ばっかりだという事。そしたら久富先生が、いいえ私が出けなせんもんじゃから。久富先生そげなこつ言いよると私しゃ当るばのと私が言うた。
 親先生がでけなさらんけんち、いう事になるばのち、私がでけんけんちいうごとなる。成程又煎じ詰めるとそうなんですもん。久富先生位熱心に打ち込んでから、おかげば頂かせ切らんちいう事は、是はもう本当に私がとこになって来るですもん。けれども昨日の晩やっぱし繁雄さんが頂いておられる様に、久富繁雄さんと久富先生がいわゆる道作りのお手伝いを一生懸命なさっておられる。
 私が一生懸命道を造っとんなら、その手伝いを一生懸命なさっとるのだから。自分の事これだん、そのまだ構われんという時かも分かりませんけれどもです、もうそげなこっちゃでけんね。だから息子達もいっちょ、本気で親孝行しようごとして堪らん、という気持ちにならにゃならんばってん、それには中々でけんから、いうなら強引にでも引っ張って、親孝行させなさいて。
 そうするとです、親孝行ちゃこげん有難いもんじゃろかという事になって、言わばこりゃせにゃ馬鹿らしかというごつなって来る。信心も同じ事。はぁ先生が間違うとる御座るばいのだけではなくてです、私自身はそう思うとります。私がシャンとしさえすりゃ、私がシャンとさえすりゃおかげになる事は分かってる。けれどもそれに、私もそれにことに一生懸命だけれども、そこにでけない人間の悲しさがある。ね、
 それが人間の性なんだ。だからそこんところを御信者の皆さんも、言わばあいよかけよの働きという事になって来て、私が強引にでも皆さんにさぁこういう御用もさして貰わにゃ。こういう信心もさせて貰わにゃと、強引に引っ張って、強引に引っ張りながらでも、信心さして頂いて、こういう信心にならせて頂くという事が、こんなに有難い事だと分かって来た時に、私は本当な事がでけて来るんじゃないかと、今度の御造営にはどうでも、強引に引っ張らなければでけるこっちゃないです。
 今度の御造営はね、そしてその御造営を通してから、けれどもあの時、自分の信心の内容というものも心の御造営も、信心の造営もでけたんだと云う様な、おかげを受けて欲しいと私は思うのです。いよいよその大きな岩も動き出したと、大きな石が動き出した神様の、いわゆる御発動が始まった。亀が動き出した、私共の心の上にもそういう一つの動きと云うものがです、生き生きとして感じられる位な、信心になって行かなければ、この際おかげを受けねばいけんのじゃないかという風に思うですね。
   どうぞ。